鹿牧場

今日は朝から雪が降っていたが昼頃には上がったので昼食を摂ってすぐに散歩に出る。コースはいつものように八ヶ岳に向かう農道を突き当たりまで登り、そこから東に遠回りしての5Kmほど。今日で4日目である。風呂上がりに計ると毎日少しずつ体重や体脂肪率が下がるのがなかなかの快感である。IMG_3170(変換後)帰って『ゾウミジンコ』のテープ巻きをしていたら、視線を感じる。ひょっとアトリエの外を見たら、窓から5〜6m離れた隣の庭に鹿の群れが来ていて雪の融けた陽だまりで草を食べている。数えたら13頭全て牡である。カメラを構えたり、立ち上がったりすると鹿も反応してちょっとこちらを見るが、ワタクシを敵だとは思っていないのか、「何、アイツは檻の中の動物、おまけに頭には角もないし、毛もないし・・・」とでも思っているのか特に警戒するでもない。本当は我が家の冷凍庫には鹿肉がぎっちりと・・・

一番の長老。彼がリーダーのようである。

一番の長老。彼がリーダーのようである。

まだ子鹿の彼は右前足がちょっと短く、びっこをひいている。

IMG_3207(変換後)彼はケンカしたのか左の角が折れている。IMG_3216(変換後)鹿も皆それぞれに生きて行くのは大変そうである。

かれこれ2時間経っても草を食べたり、満腹して座り込んでいて動く気配がない。ムスメはダリ散歩をどうしようと言ってくる。「仕方ないよ。行ったら」と、ムスメがダリにリードを付けて歩き出したら、さすがに警戒して道から20mほど離れて見送っている。IMG_3224(変換後)「ありゃ娘ッ子だし鉄砲は持っていないし、あの短足犬はどうみても猟犬ではないし、ま、逃げんでも大丈夫だろう」と思ったようだ。一方ワタクシに似て平和主義者のダリは鹿に気づいているのに知らんぷり、イヤイヤ、本当は自分より遙かに巨大な鹿が怖かったに違いない。ナメラレタものである。案の定、20分ほどしてムスメとダリが散歩から帰って来た時には、彼等はさっきより道の近くで草を食べながら眺めるだけである。

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息子の母校へ

アララギ派の歌人森山汀川の歌に草川信が曲をつけたもので、まだ未発表のものをご遺族が保管されていたのだが、古い自筆の譜面だけに読めなくなっている箇所も多く、ひょんなことからご遺族にカミサンが採譜を頼まれ、2年ほどかかり最近やっと完成したのだが、それを富士見町図書館がきちんと製本してくれた。ついては森川汀川の母校である旧制諏訪中(現諏訪清陵高校)にも寄贈して欲しいとのご遺族の希望で、カミサンが届けることとなり同行した。

イシガキ校長にお目にかかり、この楽譜を採譜する経緯を簡単に説明したところ、音楽部(合唱部)にも話しを持って行って下さるとのことであった。
3年前に卒業したムスコをよく覚えていて下さり、「ユニークなお子さんでしたね」とのことに思わず笑ってしまう。ムスコにとってはこの旧制の名残を残した高校で得たものは本当に大きかったと感謝している。丁度午前中の授業を終えられた国語のタケイ先生もお呼び頂き、散々お世話になったムスコのお礼をお伝えすることが出来た。校長先生が「帰省した時にはタケイさんと3人で是非飲みたいと伝えて下さい」とのことで、親としも感謝であつた。

午後のダリ散歩にムスメと牧草地に行く。ここは先日まで膝上まで雪が残っていたのだが、陽だまりだし、ここ数日の日中の気温で空隙に融けている。鹿の糞を食べたダリを叱ったらちっとも反省しない反省のポーズ。この後、200mほど離れるまで「待て!」のお仕置き。IMG_3158(変換後)
八ヶ岳の上から発せられたような直交する2本の飛行機雲を見る。
IMG_3162(変換後)

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散歩

昨日は2ヶ月に一度の内科であったが、数値が悪くなっていた。明らかに運動不足・食い過ぎである。ドクトル・タニウチから「まあ、歩けと言っても凍っているしなぁ〜。でも何とか!」と言われる。会計が終わって展望レストランに行くも『カツ丼婆さん』は見当たらず、ここは躊躇なく『山菜そば』なんぞを注文する。一日のカロリー摂取量を考えるとワタクシの場合は朝と夜はそれ程とは思えないのだが、どうも昼食の量が多いのと、夕食前の酒の肴が多い。で、今日から(昨夜は飲まず!)昼食後1時間以内に散歩することと、夕食前の酒の肴(大抵チーズ・サラミ、或いはクラッカーにパテである)を減らすことにして、昼食後散歩に出る。所々カチカチに凍った道を注意して村の南東側農道を阿弥陀岳に向かって真っ直ぐ登る。IMG_3125(変換後)風が冷たく、毛糸の帽子と手袋をしてこなかったことを後悔する。途中陽だまりに雌鹿3頭がのんびりとこちらを見ている。IMG_3123(変換後)農道の縦道のどん詰まりまで30分である。若い命を奪った阿弥陀に向かって合掌。IMG_3113(変換後)

明日からも晴れた日には昼食後に1時間散歩することにする。

夕方、故ミツルさんへのバレンタインのプレゼントを届けにムスメと一緒に伺う。ミツルさんは元茅野山岳会長で、遭対協として多くの登山者を救ってきた人である。3年前、山の友人宅でちょっとした事故に遭い、あっけなく逝ってしまった。ムスメが小学校2年だか3年の時に一緒に赤岳に登ったのをきっかけに、よく山行を共にした。何時頃からかバレンタインにはムスメが手作りのプレゼントを届け、ホワイト・デーには律儀なミツルさんからのお返しがあった。亡くなってからも毎年ムスメがプレゼントを届けている。ミツルさんが亡くなってしまってからワタクシやムスメの山行日数もガタ減りである。

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阿弥陀岳

今朝はいやに気温が高い。
信濃毎日朝刊によると、学習院5人パーティーは8日に行者小屋から(分三郎からか北陵からかは出ておらず)阿弥陀に登った後、中岳分岐で誤って立場川側に入り込んだが途中で気付き、同夜はビバーク、9日に南陵を登り返したが途中で1年生の女子学生が遅れだしたので主将が付き添い、1〜2年生3名を先行させ、この3名は18時頃に行者小屋に戻ったものの、9日夜9時を過ぎても2名が戻らない為に救助依頼を行ったようである。
昨夜の夕方見た県警のヘリは南陵あたりを盛んに飛んでいたし、夜のニュースでも救助隊員が南陵と思われる場所を捜索しているのを見て、ちょっと不思議に思っていたところであった。

今朝の阿弥陀は薄くガスが掛かっているが、中岳も薄く見えている。

8時半頃

8時半頃

仕事をしながらも時々アトリエから阿弥陀を見る。10時頃にはガスも上がった。何とか早く見つけて欲しいものである。

10時半頃

10時半頃

午後、釜無川の鑑札の交換に原村のイケさん宅へ。イケマナブさんは1999年に槍ヶ岳北鎌尾根で亡くなっているが、奥様のリツコさんが漁協の組合員として鑑札を受け継いでいる。学習院大パーティーを心配していた。
帰りにヨシユキさん宅に久しぶりに寄る。1980年夏、大学のワンゲル1年生がやはり阿弥陀岳に続く尾根で亡くなり、大学本部からの依頼を受けてヨシユキさんと遺体収容に夜中に登ったことなどを思い出す。
14時頃から盛んにヘリの音がしだし、16時頃県警ヘリが帰投するのが見える。ひょっとして見つかったのかと思い帰宅してパソコンを見たら、阿弥陀岳南西面にて遺体発見とのことであった。

16時過ぎ

16時過ぎ

ネット・ニュースでは2ルンゼ?(広河原沢2ルンゼ?)付近でザイルに結ばれたまま1.5mの雪の下に埋まっていたとのことである。

1999年の正月、ワタクシの所属した山岳部でも後輩2名を鹿島槍で失い、更に翌年の夏には穂高でやはり1名が墜死した。皆二十歳くらいだった。
辛いことである。が、それでも山が、特に雪と氷に閉ざされた山が『登る人』を強烈に惹きつけるものがある以上、山に登らない人間が下界のストーブの前で何を言っても決して通じやしないのである。

 

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遭難事故

昼のニュースで学習院大学山岳部の2名が阿弥陀岳で遭難したことを知る。詳しい状況は分からぬが、8日におそらくは北陵から登頂後にビバーク、昨9日3名は行者小屋に戻ったが2名が夜中になっても戻らないとのことで救助要請が出されたとのことである。昨日は普段殆ど吹かない我が家周辺でも強風が吹き、上は大荒れだったと思われる。雪崩に巻き込まれていなければよいのだが。

今朝から県警救助隊やOBも捜索に入った様子だが、朝から阿弥陀周辺には雲がかかり、ヘリはとても飛べそうもない。
学習院山岳部とはワタクシのいた山岳部も親しく、志賀高原でスキー中のカワダさんに連絡を入れる。毎年谷川岳の我々の小屋周辺で雪上訓練をやっていて、監督や現役の顔見知りもいるとのこと。

15時半頃、アトリエから見たら阿弥陀の南面の雲が上がってきたので、カメラを持って外に出てみる。中岳方面には雲があるが南面は晴れている。見ていたらちょうど長野県警のヘリが旋回しだした。IMG_3058(変換後)

4〜5年前にも2名だか3名のパーティーが阿弥陀から行者小屋へと下山中に立場側に入り込み、救助に向かった県警救助隊の若い隊員が雪崩に流され(助かったが)、あわや二重遭難という事故(登山者は全員死亡)があった。何とか天候が持って今日中にヘリで助けられれば良いのだが・・・

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