昨夜からの雨は一時大降りとなるも昼過ぎには青空となる。南側の庭の雪も一気に融けて地面が現れ、雪の下から小さなスミレやタンポポが顔を出している。強いものである。
ニュースでは春一番が吹いたとのこと。春が近いのは喜ばしいのだが、今冬はまだスキーにも山スキーにも行っていない。ま、明日はまた寒くなり雪マークであるからまだ大丈夫だろう。
春一番
独身生活
9日からカミサンは義母の見舞い?に上京中。
ワタクシは切って切って・組んで組んでの毎日。今回は直線だけのデザインであり、と言うことはワタクシの嫌いな直線カットを続けなければならないということである。直線カットは定規を当ててシャーッとカットすればよいのであるから作業としては楽なのであるが、カットの面白味は全くない。おまけに老眼+加齢黄斑変性を患っている身としては夕方薄暗くなると定規の0.5mmや0.25mmが見えない。いくら日が長くなったとはいえ、電気を点けても夕方5時過ぎるともうイケナイ。仕方ないので朝は7時半には仕事を始め、昼食後も直ぐに仕事をしている。
であるからカミサンが居る時よりも清く正しい生活を送っている。
朝は6時に起きて、パンにハムとレタスを挟んでのサンドイッチにコーヒー。昼は11時半に鍋焼きうどんである。鍋焼きうどんは数十年前の独身生活時代の冬の定番食である。野菜も肉も卵も天ぷらも(最も天ぷらではなく天かすであるが)と栄養を摂れるし、食べた後に土鍋だけを洗えばよいので鍋と丼を洗うより一手間少なく、得した気分になれる。夕方5時過ぎになれば一杯やりながらの夕食作りである。今回はカミサンがおでんの作り置きに、カレー・豚カツ・グラタン・餃子などを冷凍しておいてくれたのでテキトーに食べていたのであるが、本日は仕事もはかどり鉛線入れも終わったので夕食前に風呂に入り、昨日漁協の所用で下った折に買ってきたステーキ肉を焼き、フライド・ポテトを揚げ、サラダも作りと気張る。
満腹してうたた寝をしていたら9時頃にピンポーンとチャイム。出てみたら青年団の法被を着た若者が5〜6名である。何かと思ったら青年団員募集のチラシ配りであった。この集落の青年団は長野県で唯一存続している青年団であり、敬老会で踊ったり夏祭で踊ったりしている。団員同士の結婚もあるようだが、ちょっと不思議。さすがに昨今は団員不足のようである。ムスコやムスメが帰ったら是非渡して欲しいとのことであった。
大先輩
今月も4枚、4㎡仕上げなければならないのだが、昨日2枚目が終わる。さて次のデザインのガラス・カットを、と思ったらまだ原寸図を描いていないことに気付く。アチャーである。既に描いたつもりでいたのだから度し難い。惚けである。
で、いざ描きだしたのであるが、1/10スケールで描いたデザイン画の時点で受け取った寸法と、実際の窓の縦横比が大分変わってきている。アッチを伸ばし、コッチを縮めと苦労する。
昼前、山岳部OBのカワダさんから電話。「今、よませ(志賀高原)を出るところ。木村のケンちゃんとちょっと寄るから」とのこと。一昨日から山岳部OB会の恒例のスキー大会がよませ温泉スキー場のやはり先輩であるヒラサワさんの処で開かれていてその帰りである。東京からスキーに行くと言えばそれなりの立派な旅行であるから、八方尾根だろうが志賀高原だろうが大差ないのかもしれないが、こちらに住んでいると八方尾根を通り過ぎて志賀高原までと考えると如何にも遠く感じる。そんなこともありワタクシは参加していないのだが・・・
で、2時半前にカワダさんとキムラさんがいらっしゃる。キムラさんとはもう20年ぶり位でお会いするが、81歳とは思えずにお元気である。某おかき会社の会長でいらっしゃって、洒落たデザインの箱に入った「おかき」をお土産でいただく。
「10数年前に心臓弁膜症の手術でアンガス牛の物を入れたのでアンガス牛には親近感があって・・・」との話にカワダさんが「エェッ!牛の心臓入れたの!」には「私がいくらヨダレを垂らすったって心臓は入れませんよ」には思わず吹き出す。カワダさんとキムラさんのボケとツッコミのような話に笑い通しである。散々笑い、仕事の遅れも忘れていい気分転換となる。感謝である。
現場
昨夜はさすがに疲れていたのであろう、一日の重要な儀式であるベッドの中での読書もせずに22時頃に寝たが、今朝は7時半頃まで寝ていた。雪は大して積もらずに9時頃にはあがる。
半田付け作業。
明日は次の仕事のクライアントを交えてステンドの大きさやデザインに関する打ち合わせである。
午後、内部足場が取れたとのことで鉢巻道路上の現場へ。内部足場が取れてステンドを入れる巨大空間が現れていた。入れるのは1階と2階の間の梁の上下空間である。さてさて・・・
帰りは県道を通らずに別荘地を経由していつものウォーキング・コースの様子を見がてら軽トラで下る。最後の別荘を超えて林道に入るなり除雪は終わり、大きなトラクターの踏み跡だけの、それもいきなりの下りになる。引き返そうとするもツルツルに凍った路面にいくら4WDとはいえ後部荷台の軽い軽トラのバックでは最後の1mが登れず、ままよと前進することにする。牧草地脇を越え、今度は登りであるが片方は水の流れるセギである。スリップして一輪でも落としたら事である。トラクターの轍は深く、軽トラの腹を擦りながらセカンドでゆっくりゆっくり登る。上の平らな農道、ウォーキングの引き返し地点に出た時には心底ほっとする。いつものコースを下るが、最後の400〜500mは全く除雪されておらず、遠回りして帰る。当分の間はいつものウォーキング・コースは歩けないことが分かった。
告別式
昨日は漁協組合長の葬儀であった。14時からJAの葬祭場にて300名程が参列。明科から信州水産(稚魚の仕入先)の社長が新聞報道を見たといって駆けつけてくれる。曹洞宗の菩提寺の坊さん4人と参列者による般若心経の唱和で始まり、1時間半の結構長い葬儀であった。
こちらの葬儀はワタクシの育った東京とは違い、まず通夜は基本的には親族主体である。東京などでは親しかった人が通夜に集まり故人を偲ぶが、こちらでは告別式に参列するのが普通である。また通夜の翌朝、つまり告別式当日の朝、早い時間に出棺式・釘打式があり、通常午前中に火葬する。従って午後からの告別式にはお骨となっているのである。であるから出棺を参列者で見送るということはないのである。
告別式の後は精進落が直ぐに開かれ、参列者の殆どが参加して料理・酒が振舞われ、帰りには葬儀に使った花を参列者がそれぞれ貰って帰るのである。
ワタクシがこちらに住み着いた40年近く前には土葬が当たり前に行われていたし、JAの葬祭場が出来る前までは亡くなった方の隣組が一切を取り仕切って集落の寺で葬儀を行っていたことから比べれば、随分と変わったのであるが。ちなみに20年前のオフクロの東京での葬式は本人の遺志でもあり、無宗教で東京の家で近親者のみで行ったし、オヤジがこちらの家で亡くなった時も、無宗教で近親者のみで行った。ワタクシが死んだ時にも同様にしてもらうつもりである。
告別式の後、オヤカタ(元組合長)や専務、漁協の税理を担当してくれているミヨシさんや駅前の仕出し屋のタケシなどといつもの飲み屋に寄り、これから漁協をどう立て直すか話し合う。最近は漁協組合員の減少、高齢化、釣り人も減少する中、漁協経営も難しい時代となっている。3月中には理事の改選、組合長選出を行い、また今回の事故の教訓から保険の問題、赤字経営の立て直し等々、早急に改善しなければならないことばかりでり、頭の痛いことである。