もう後一歩なのだけれど・・・

何枚も描いたデザイン、まだ「コレッ!」と言えない。描いたり、消したり・・・

松本の山道具屋『ブンリン』に夏山用山靴の底の張り替えを出していたのだが、修理出来たとの連絡が来ていたので思い切って気分転換にカミサンと行くことにする。高速で松本に行く途中、後立山の山並みが綺麗に見える。’99年の正月に山岳部の後輩2名が鹿島槍にて遭難、6月末に遺体収容するまで何度も通い、辛い思いで見上げた山々であるが、あれからもう16年である。DSCF7175(変換後)

『ブンリン』にて山靴を引き取る。きちんと直っていた。どうも最近のビブラム底、確かに岩への食いつきは良いのだが、減り方はやけに早いように思う。それにウレタン部分だかの加水分解だかはイタダケナイ。DSCF7181(変換後)
ちょっと歩いて『本郷食堂』に行く。ここは学生時代、カトウセンセイの実家でブラブラしていた頃だか、八ヶ岳に住み着いてからペンキ屋のモモセさんのところに1ヶ月に7日程バイトに行っていた頃だかによく行った昔ながらの街の食堂である。4〜5年前だかに家族で偶然通りがかり、まだやっていることを知った時には何とも懐かしく、揃って『焼そば』を食べた。ガラッと開けたら昼過ぎだったせいか客は誰もいない。愛想のいいオヤジさんが「いらっしゃい!初めてかな?初めてだったら評判のいい焼そばがいいよ。」という。「いや、昔はよく来たんだけれど・・・」「そりゃ、失礼!」「今日は富士見からなんだ」「そりゃ遠くからありがとう」ということで、やはり『焼そば』を頼む。「焼そば、評判になってね。TVにも出たし、こないだはラジオにも出たんだ。だけどうちは後継者がいないんで、もう後2〜3年かな」と淋しいことを言う。本当は『焼き蕎麦』を肴にビールをと思うのだが、カミサンの運転で心中するのもナニだから、おとなしくお茶と共に食す。DSCF7177(変換後)『焼そば』に箸を付けてからの慌てての写真となったが、昔から全く変わらない味と量である。いわゆる『かた焼きそば』や『バリそば』ではなく、中華麺をフライパンで焦げるくらいしっかり焼いた上にちょっと硬めの餡掛けと卵焼きが乗っているのだが、この写真で見るよりずっとボリュームがあるというか、食べごたえがある。大盛りもあるのだが、大食いのワタクシでも普通で充分の量である。カミサンは2回目だが、美味しい、美味しいと食べている。考えてみるとここでは昔から『焼そば』しか食べたことがないかもしれない。こういう街の食堂が段々なくなってしまうのは淋しいことである。

帰りはノンビリと下道で帰って来る。

明日は頑張るぞ!

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沢庵

昨秋に漬けた沢庵がやっと食べられるようになった。昨年は大根が豊作であったようで、あちらこちらの農家から大根をいただいた。とても年内に食べ切れる量ではない。土にでも埋めておけば冬中食べられるのだが、生憎庭は石だらけなので掘るのが大変なのである。そこでカミサンが指導しているコーラスグループでいつも美味しい沢庵を届けてくれる方に「沢庵の漬け方」をご教示頂いた。2週間程の天日干しが必要だが、夜は凍み上がるので必ず屋内に入れねばならぬと言う。カミサンが物干し竿に紐で50本程もの大根をぶら下げたはいいが、ステンレス製の物干し竿が折れるというトラブルを経て、カミサンもちょっと進化して竿2本を使うことで何とかぶら下げることに成功した。だがそれからの毎日が大変であった。朝夕、カミサンとワタクシで大根がぶら下がっている竿を肩に担いで部屋からデッキに出し入れする作業が思っていた以上に大変だったのである。昔オヤジが使っていた部屋からデッキまで距離は10m程度とはいえ、4mの竿を担いでドアを通り抜け2回直角に回らねばならない。とにかく重いし身長差もある。お猿のカゴやの如くマヌケな格好で、人には到底見せられない姿なのである。おまけにそもそも『沢庵用』に頂いた大根ではないから、太さもまちまち、長さもまちまちである。で、普通に考えれば「太い物同士」「細い物同士」「短い物同士」を紐でぶら下げておけば良さそうなのだが、そこはソレ、何せカミサンである。干し上がった大根とまだまだ干し足りない大根が混在することとなってしまったのである。途中で「これはOK、これはもう少し」との調整を経て、何とか干し終わり、カミサンも人類としての大きな進歩を得たことはメデタイことであった。それから2ヶ月、糠に漬け込まれた大根は立派な沢庵へと変身を遂げ、ついに昨日から食卓に上るようになったことは、これまた誠にメデタイことであった。カミサンも『初の沢庵漬けの成功』と『自らの進歩』を祝したのであろう、クマシロさんが焼いて下さった皿に綺麗に並べられた沢庵に、ワタクシは思わず吹き出したものである。ちょっと干しすぎたようだが、味はなかなかである。何本かを燻製機に入れて『いぶりがっこ』にしようかと考えている。DSCF7170(変換後)

でもって、また思い出してしまった。遠い昔、ワタクシのオフクロは『ぬか漬け』が上手だった。ワタクシがカミサンと結婚する頃、オフクロは病床にあり、彼女が何十年も育ててきた『ぬか床』はオフクロがアッチに逝ってからはカミサンの管理となり、『オフクロの形見のぬか床』も東の都から信州の田舎に引っ越すこととなった。ところが都で一人暮らしをしていたオヤジもこれまた年中入院したり、あっちを切ったり貼ったりの人であったから、その都度ワタクシの家族は『ぬか床』を車に積んでの移動となった。夏は特にイケナイ。いくら壺ごとビニール袋に密封しておいても車中の2時間強烈な匂いなのである。そんな幾年かを経てオヤジも田舎で同居することになったのであるが、何よりオヤジが亡きオフクロの『ぬか漬け』との再会を喜んでいたのはサイワイであった。ところがである、この『オフクロの形見のぬか床』が時々おかしくなる。塩の量、カラシの量、糠の種類、かき回し不足等々、カミサンの管理責任が厳しく問われるのであるが、その度に『離婚の危機』が持ち上がるのである。今夏も暑かったからであろう、おかしくなった。仕方ない、半分ほどの『形見』を捨て、糠や塩、昆布やカラシを足したりと一時は大騒ぎであった。まだ『オフクロの味』には完全に戻っていないが、かくして当面の『離婚の危機』は乗り越えられたのである。

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ドツボに嵌る

ドツボに嵌った。デザインが決まらない。あとちょっとが描けない。イメージするものが見えているのだが、何かが足りず、何かが多い。何枚描いても決まらぬ。こうなるともうどうしようもない。毎度のことなのだが『線』が見えてくるまでどうしようもない。

外は快晴である。雪がまばゆい。山に行こうか、山スキーに行こうかと外をつい眺める。つい天気図を調べたりする。綺麗な風紋やシュカブラの中を歩きたいと考える。IMGP2015(変換後)いやいやもう後一押しだと机に向かうが描けない。窓の外を眺める。裏庭の薪山が雪を被っている。そうそう、そろそろ薪をデッキに運んでおかねば・・・気が散る。

今朝は怖かった。夜中に降った雪が踏まれてテカテカに凍っている。ムスメを送る駅までの数Kmの下り坂はブレーキなんて下手に踏めない。ムスメに「お前、たまにはサボれよ。毎日学校になんぞに真面目に通っていたら碌な人間にならんぞ!」と説教をたれる。ムスメを降ろして、我が家までの登りである。向こうからスキーを屋根に積んだ車がフラフラしながら下って来る。ヤバそうである。ワタクシは左に寄って止まる。50mほどに近付いた敵は何を思ったかブレーキを踏んだようだ。完全にコントロールを失っている。回った。運転席のオニーサンの顔が引きつっているのが分かる。助手席のオネーチャンは何か叫んでいるようだ。やられたと思った瞬間、敵の車は真横を向き、田舎のベンツことワタクシのジムニーの2m手前で奇跡的に止まった。「スンマセン。四駆だから大丈夫だと思ったんスけど。やっぱチェーン付けなきゃ駄目ッスカね?」と金髪オニーサンが震えた声を出す。見たら、この都ナンバーの車、ノーマルタイヤである。「アホ、馬鹿、死ね」とは言わずに、「持ってるならそこで付けなきゃこの先下れないぞ」と、優しく教えてあげる。丁度道路から引っ込んだ車の修理工場の前だったので、そこに入れと指示するが、アクセルを踏みすぎて横を向いたままずり下がってくる。こちらが慌ててバックしてやる。何とか修理工場の前に入ったオニーサンは車から降りてきて最敬礼であったが、隣のオネーチャンはタバコを吸いながら助手席で知らんぷりである。「サッサと別れた方がいいぞ」と思わずオニーサンに人生の先輩として忠告したくなった。

またちょっと思い出した。3〜4年前の冬だったか、西友の雪の駐車場に外国製の派手な黄色の馬鹿でかい四駆が威張って止まっていた。何で威張っているかというと、駐車区域ではなく入り口の直ぐ脇にドンと止めてあるのだ。雪で狭くなっているのに誠に迷惑である。でも見慣れぬ凄い車に数人が見とれていた時、どう見てもカタギではない派手なイデタチの家族?がそれぞれ大量の買い物を持って現れ、ド派手な化粧に長い毛皮を着込んだ20代前半と思われるオネーチャンが「キャッ!」と叫んでこけた。雪で滑ったのであるが、ご丁寧に踵の高いブーツの両足は天を向き、生憎コートの前を止めていなかったものだからミニスカートから見事なおみ足は付け根まで全開のままお尻から着地した。更に悪いことに、両手に提げていたビニール袋には何本ものワインが入っていたものだから、雪はワイン色に染まった。もうどう見ても映画のワンシーンである。一瞬、沈黙が流れた次の瞬間、爆笑が巻き起こった。田舎とは言え何せ西友の入り口である。もう20人以上が笑い転げている。カタギに見えないオッソロしそうなオヤジが「見るな!見るな!馬鹿野郎!」と怒鳴り出したが、皆笑いこけている。で、ワタクシはどうしたかというと、ど派手なオネーチャンに手を差し伸べるべく、いや、あまりの光景に、そのぉ〜、ついつい両手を頭の上で叩いてしまったのである。こういう行為はどうも伝染するようである。取り囲んだ人がまるで沖縄のようにキャーキャー言いながら頭の上で手を叩きだしたのである。もうこうなったら全員映画のエキストラなのである。オッソロしいド派手オヤジは「見るな!見るな!」と喚きちらし、これまたド派手なオカーサンはムスメを起き上がらせようとするが、何せ彼女も都会用のブーツである。一緒にもがいて起き上がれない。「そんたら靴じゃ歩けねぇ〜わ」と通りがかりのオバーサンはお説教をするは、「そんたらところに車止めるな。邪魔、邪魔!」と怒るオヤジさんもいる。「ありゃ、映画俳優かね?」「うんにゃ、ヤクザじゃないの?」「ありゃカタギじゃないな」と、もう皆すごく楽しんでいる。ホウキを持った西友のオバサンも割れたワイン瓶をほっぽらかして笑っている。ほうほうの体でやっと馬鹿でかい車に乗り込み、窓から「馬鹿野郎!」とふて台詞を吐きながら立ち去るご一行様であったが、その時また自然発生的に拍手が巻き起こったのは映画の中で『悪代官を追い返した百姓』の如くであったのである。

さてデザインを続けよう・・・

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ナマズからのお知らせ?

今朝、扶養家族のナマズのゴンベイとジンベイが上の水槽と下の水槽で同時に大暴れしたから大地震が来るかもしれないとカミサンが心配している。ゴンベイとジンベイは別々の水槽で飼っていて、それぞれが時々、全く別の日時に大暴れするが地震を予知したことはない。いや、多分ないと思う。大体1週間に何回も大暴れするので、慣れっこだし、そもそも地震の何時間前とか何日前とかに暴れても記録を取っているわけではないので分からないのである。
IMGP5238(変換後)ただ今回は同時に2匹が大暴れしたところを初めて目撃したわけで、ひょっとすると、である。奇特な読者は注意されたい。(水槽が汚れたので「早く水替えせえ!」と怒っているのかもしれぬ)

このニホンナマズのゴンベイとジンベイであるが、もう7〜8年飼っている。前にも飼っていたのだが、餌のドジョウやカエルを食い過ぎて死んだ。それでこちらはNetで小さいのを探して購入した。最初7cmであったが同居させたらお互い喧嘩ばかりしているので別々の水槽に分けた。上の水槽にいるゴンベイは愛嬌者で、今では餌係のムスメが近づくとユラユラ水槽に顔を付けて餌を要求する。餌はナマズ用ペレットにした。数年前、一時危篤となったがワタクシの愛の心臓マッサージによって生還した。下の水槽にいるジンベイはゴンベイと違ってシャイである。近付いても知らんぷりであるし、餌をやっても人前では決して食べない。夜中に密かに食べているらしい。両方とも今では35cm位に成長したが、水槽が60cmであるからこれ以上大きくならぬよう餌の量でコントロールしている。性別は分からない。ゴンベイは性格からして♂と決めつけられている。ジンベイと呼んでいるが、ひょっとするとこちらは♀かもしれないし、案外反対かもしれない。まあ、サルバトーレ・オクズミ・ダリほどには癒してくれないし、地震予知にも役だってはくれぬが、時々大口を開けて笑う顔はなかなか可愛いので未だ蒲焼きとはなっていない。

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50年ぶり

一昨日の夕食はムスメが握った大ぶり鹿寿司と鹿ステーキをたらふく食した。DSCF7146(変換後)生肉だから大きな声ではあまりお勧めはしないが、ヒレ肉で作る鹿寿司はウマイ!

で、話し変わって、今朝はビックリした。昨夜、都に住む小学校の同級生だったアキコさんから来たメールの中に、転居先不明の同級生テツくんの情報として、「どうも諏訪に住んでいるらしい。○○の研究職で、市民オーケストラでヴィオラを弾いているらしい。知らないか?」と書いてあった。来年が小学校卒業50周年となるとのことで、クラス会の幹事であるアキコさん等が級友の転居先を調べている。諏訪に住んでいるならと色々と検索を掛けたら顔写真があり、拡大してみると確かに昔の面影がある。昔はもっとポッチャリしていたはずだが、確かに似ている。更に検索したら、何と同じ富士見町に住所がある。早速電話する。「もしもし、ワタクシ富士見町に住むオクズミといいますが、あのぉ〜、ひょっとして○○小学校にいた○○テツさんですか?」と問うと「エッ、オクズミくん!イヤァ〜懐かしい」となった。都の小学校時代3年間だけ一緒だったのだが、それから50年全く会わずに長野県のそれもたった人口1万5千人の同じ町に住んでいたとは驚きであった。聞けば彼も富士見にもう30年住んでいるという。こんなちっちゃな町であるからきっと何処かで行き会っていたはずである。カミサンに話したら「ヴィオラをやっている人なら、多分その人とは会ったことがある」と言う。案の定、町の共通の知人の話まで出る。早速メール・アドレスを交換してお互いのその後を書く。彼のメールに「早速小学校の卒業アルバムを引っ張り出してきて」というのがあり、ワタクシも引っ張り出す。いたいた、やっぱり面影が残っている。もうアッチに逝ってしまった人や、憧れた人、喧嘩ばかりした奴と、50年も経つと懐かしい顔ばかりである。寄せ書きにテツくんは「若い世代の前には長大な未来がある」と書き、ワタクシは「自己のペースでいつまでも」と書いてある。なるほど、宿題や毎日提出の日記をサボることしか考えなかったワタクシと、大企業の研究職となったテツくんの差は既にこの時代に作られたのかと妙に納得する。ともあれ近々我が家で一杯やる約束となる。

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