「命が透けて見える・・・その命と私たち人間の命はつながっている」というサカタアキラのサックスを聴きながら、今度は『ゾウミジンコ』である。
「命が透けて見える」「その命と私たち人間の命はつながっている」という思いと、原発事故・汚染水漏洩を「コントロールされている」というどこぞの首相の発言の落差を思う。原子力と遺伝子操作、それは決して人間が手を出してはいけないものなのではないだろうか。
「命が透けて見える・・・その命と私たち人間の命はつながっている」というサカタアキラのサックスを聴きながら、今度は『ゾウミジンコ』である。
「命が透けて見える」「その命と私たち人間の命はつながっている」という思いと、原発事故・汚染水漏洩を「コントロールされている」というどこぞの首相の発言の落差を思う。原子力と遺伝子操作、それは決して人間が手を出してはいけないものなのではないだろうか。
台風一過、快晴であるが7時現在6℃と寒い。ムスメを送った後、お犬様の領地視察に同行する。降り止んでからまだ20時間も経たないが川は随分と引いた。家の前の淵の形も随分と変わった様子だ。上の集落に登る道は枝や葉っぱで埋まっている。途中、いつも山栗を採る木の下にはまだ青々とした山栗が沢山落ちている。靴を履いていないダリは「迷惑!」という顔をして除けながら歩いている。ドングリも沢山落ちている。
ということは、人様も熊様も美味い秋の味覚をあまり食べられないことになる。
ともあれこの村ではあまり大きな被害はなかった様子である。
今朝は05時頃から台風18号による風雨が強まった。風は普段あまりあたらない場所であるが、さすがに今朝は結構吹くし、もの凄い降りである。気象庁は「今までに経験したことのない大雨情報」を京都や滋賀に出した。我が家は2本の川の合流点にある中州という、まことに恐ろしい所に建っているので、大雨時はちょっと怖い。が、そのリスクを敢えて引き受けて尚、得られるものもあり選んだ土地である。普段は心地よい川音が、増水するとゴーゴーと凄まじい。急勾配で直線的な川であるから流れも速い。こんな時、アマゴやイワナはどうしているのだろうと余計な心配をする。
増水した川を2階から見下ろしていると「血湧き肉躍る」になる。ピンク・フロイドの「吹けよ風 呼べよ嵐 One of These Days」が頭の中を駆け巡る。
12時前には台風は既に長野県内を通過したようである。雨も小降りとなったが、こんな増水はここに越してきて10数年なかった増水である。水面は庭からまだ2mほど下であるから特段怖くはないが、この水が急に減ったら上流の土砂崩れでダム湖が出来た合図である。そうなったら決壊する前に逃げ出さねばならぬので注意はしておかねばならない。
昨日は「日本のてしごと」の、よこやまゆうこさんの取材を受けた。2ヶ月前にオファーを頂いたのだが、ちょっと忙しかったし、あまりに仕事場が汚かったので延ばしてもらっていたものの、やはりというか、やっぱり夏は暑かったし、五十肩という何と言っても立派な言い訳が立ったので相変わらずの汚い仕事場のままである。
今まで取材は随分と受けた。地方紙は書くこともないのか一頁丸ごとなんてこともあったし、地方TV局やNHKの取材もあった。新聞やTVに出ると電話が掛かってきて「あのぉー、会社が面白くないんで、これから工芸家になりたいんですがぁ〜、どうしたら工芸家になれるんですかぁ〜」なんてバカな人生相談電話がある割りには仕事は来ないのであるが、ま、これはモデルが悪いし、仕方ない。
『家庭画報』は椿山荘の離れだかをわざわざ借りて照明器具の写真を撮ってくれた。馬子にも衣装であった。また随分と丁寧な取材をしてくれたある編集者に、遅くなったので夕食でもとカレーを出したら「お話しでは随分とビンボーされているのに凄い量の牛肉ですね」と言うので、「それ貰った馬肉の切り落とし」と告げたら、青くなって「僕、馬は駄目なんです・・・」と慌てて本当に家を飛び出した。きっと馬との辛い想い出でもあったのだろう。またちょっと事情があって断れない雑誌取材では、女性ライターがこちらの話すことをどうもきちんと聞いていない様子。挙げ句の果てに「何か今まで受けた取材記事があったらコピーして下さい」と宣う。いい加減アホらしくなり「もういいいよ。適当に」と言ったら本当にテキトーに有ること無いこと書かれた。
で、よこやまさんの取材であるが、『日本のてしごと』という工芸専門のサイトを主催されていて、よこやまさん自身が機織りや草木染めをなさっている方なので話しも理解も早いし、予めワタクシのブログを読んでくれていたようで、大体のことは知っている様子である。
「昔、マイルス・デービスと一週間一緒にCMの仕事をしたことがある。その時マイルスがシャッシャッと絵を描いてプレゼントしてくれた」とのこと。マイルスの絵ってそれりゃ『お宝鑑定団もの』じゃなかったっけ、である。またロン・カーターとも仕事をしたことがあるとおっしゃる。どうも色々と面白い人のようである。今度はこちらが取材させてもらおうかしら・・・ついついお引き留めしてしまう。
今日は2ヶ月に一度の内科である。血を採られるので朝食抜きである。血圧はコントロールされているが、HbA1Cが2ヶ月前より0.1上昇。「ま、こう暑い夏に運動なんかすりゃ、余計身体に悪いよな。秋になったからそろそろ歩いてよね」と叱られずに放免される。病院の展望レストランに10時前に行き、今日こそは2ヶ月前の腰の曲がった婆ちゃんみたいに「カツ丼!」と思ったが、やっぱりちょっと日和って「親子丼」にする。
五十肩が治らない。腰痛は治ったのだが、もう3ヶ月以上左肩が痛い。普通に腕を動かす分にはそれほど痛まないが、何かの弾みでちょっとでも腕が捻れると猛烈な痛みが襲う。大きなガラスをガラス棚から出す時、ズボンを履き、シャツの後ろをズボンの中に入れる時など暫く激痛に耐えねばならぬ。習慣でついつい後ろ左側ポケットに入れた財布を出そうとしてレジ前で激痛に襲われる。ならば財布を右側ポケットに入れておけばよいのだが、癖や習慣というものは恐ろしいもので、ジーンズの左側ポケットには財布、右側ポケットには携帯を長年入れていたので、これを逆にすると運転席に座った時にどうもしっくりこない。1ヶ月前に整形外科で左肩に注射を打ってもらい、消炎鎮痛剤だの筋肉緩和剤だのの飲み薬や湿布を大量にもらったのだが一向に効かぬ。
でもって、本日は1ヶ月後の整形外科の予約日。予約時間より30分位遅く来てくれというので10時に行ったらサイワイ直ぐに診てもらえた。「一向に治らぬ」と伝えると腕を色々な角度に動かして「これはかなり酷い五十肩ですね」とのことで、前回より強い鎮痛剤注射を肩に打たれる。と、同時に痛みは消える。但しこれは直ぐに効果も無くなるとのことで、また消炎鎮痛剤と湿布が1ヶ月分出て、「1ヶ月後にまだ治っていなければヒアルロン酸注射を始めましょう」とのことであった。会計と薬で待たされる。
今までにも五十肩になったことはあるが、大抵は2〜3週間で自然に治っていた。『本物の五十肩』がこんなに辛いものだとは考えてもいなかった。東の都に行かねばならぬのだが、長時間の車の運転にも支障があるは、左手では電車のつり革には掴まっていられそうもなく、ステンドの取り付けにも支障があり、困ったことである。おまけに今朝は12℃まで下がった。薪割のシーズンも来てしまった。全く困ったことである。
そういえば、昨日は3ヶ月に一度の辛いガン検査(痛くも痒くもないのであるが、アラレモナイ格好をさせられ、ムスコの先っぽから内視鏡を膀胱まで入れられる・・・)があったが、幸いなことに表在性膀胱ガン(膀胱移行上皮に出来る腫瘍。10日程入院して膀胱鏡にて切除すれば何らの機能的支障は残らない。但し再発率は7〜8割と高い)の再発は見つからず、これで一回目の手術から5年近く、再発手術と抗ガン剤治療から3年7ヶ月となった。まことにメデタイことである・・・
と、また思い出した。明後日はこちらは2ヶ月に一度の内科検診日である。こちらは血圧や、毎回の血液検査から総体的に体をチェックしてもらっている。数値がちょっと上がっては叱られ、ちょっと下がってはお褒めの言葉を戴きが続いている。
何せガンのデパートのようだったオヤジ(頭と肺以外それこそ内臓全てが何年おきかにガンとなり、その都度あちこちの臓器摘出手術を受け、『お腹の中は空っぽ』なのに、84才で亡くなる直前まで三度の食事と酒とタバコを欠かさなかった)の、こちらでの同居以来の主治医が「アンタはガン家系」と診ていてくれ、時々上や下からカメラを突っ込まれるのである。
また69才で亡くなったオフクロは、見つかった時には「悪性リンパ腫で余命2〜3ヶ月」であった。当時は悪性リンパ腫は絶対の不治の病であり、手さぐりでの抗ガン剤の組み合わせ治療が開始されたばかりの頃だったが、これがオフクロのガンとの相性が良かったのか、当時としては最長不倒記録11年というギネスばりの大記録を達成した。3〜6ヶ月入院して強い抗ガン剤で徹底してガンを叩き、治ると1年とか1年半は自由に旅行も出来、再発すればまた叩いてであった。その後悪性リンパ腫は抗ガン剤で完治するガンの代表となっていくのであるが・・・
ま、そんな両親の血を色濃く引き継いだワタクシであるからガンの一つや二つはきちんと引き受けているのだ、が、今週は3回の病院通いというのは結構ハードである。周りは病気の『気』が充ち満ちている場所で、予約診療でも結構な時間を待つというのはそれだけで病気になりそうなのである。
ついでにもっと思い出し、ちょっと残念なのは京都のタザワさん達『京都のさるバーに集まる面々』が作った『GUN倶楽部』の会員徽章のピストル型バッチをもらっておく前に、タザワさんがワタクシと同じガンからの転移で逝ってしまったことである。 「オクズミくんも仲間になりはりましたなぁ〜。ワシと一緒のガンやし、『さるバー』に時々一緒に行ってくれはったさかい、『GUN倶楽部』に入れてあげまひょか。」と言って下さっていたのだが、生憎ピストルが手元に無かったのでまだ貰っていなかったのである。つくづくも残念である。今、『がん友』であるヨシユキさんと「どう見たって俺たちガンには見えないよな」と『GUN倶楽部 信州支部』を考えている・・・