立沢登山

昨日はワタクシの住んでいる集落の公民館活動である『立沢登山』であった。以前にも書いたと思うが、昨年急死された故小池満氏が「立沢に生まれ育って八ヶ岳に一度も登らずに死んじまうなんて可哀相だ」と20年前から始めた行事であり、生前から「そろそろオマエが引き継げ」と言われていた。で、昨年から引き継いだのだが、昨年は残念ながら雨で中止。今年も先ずは八ヶ岳の一番南端の編笠山(2523m)からとなった。続いていた猛暑も落ち着き、高曇りであったが涼しく、『立沢登山』としては最多の32名の参加があった。富士見側からの登りは標高差1200m近く、下は小学1年生から上は74才までと幅広い年代にペースをどの程度にするか難しい。幸い涼しかったので汗もかかずに小学校の集団登山程度のペースで登る。頂上直下200mの岩塊地帯では台風の影響かバランスを崩しそうになるほどの強い風が吹く。北に続く八ヶ岳の展望はガスの中であったが、富士山から南アルプス・諏訪湖まで見渡せる。昼食後、幸いにして風が弱まり、岩塊地帯も全員無事に下り、続く岩小屋までの急坂もアブに追われながら全員よく歩いてくれ、15時過ぎに登山口に戻る。DSCF5882(変換後)DSCF5892(変換後)戻ってから「集落改善センター」にて『反省会』という名前の飲み会。ビールが旨い。やれやれ終わった。

夜、明日で20才となるムスコが期日前投票のために帰省する。ダリ、大喜び。ムスメ特製ケーキで1日早いが20才を祝う。手に入れた100年ほど前のブッシャーのサックスを持って来ていたが、野太く甘い音色にびっくりする。楽器は人を選ぶというが、本当に良い楽器を手に入れたようだ。

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灼熱地獄からのお客様

足が弱ったダリの為にしばらくは庭だけの散歩にしていたが、ここ2〜3日、ダリは揺るがない決意を顔に表して10数年歩いた森の方へと小走りに向かう。そうかそうか、たまにはテリトリーの巡回もせねば落ち着かないのであろう。時々足をもつれさせてドテッと倒れるが、決意は固い。橋の手前で「帰ろうか?」と問うが、フンという顔をして森に向かう。ヨロヨロしながらあちこちのテリトリーの臭いを嗅ぎ、オシッコをかける。森の中のT字路まで行って「頑張ったな!」と頭をなぜてやると急に表情を和らげて帰路に着く。きっと彼も帰る切っ掛けを待っていたのだろう?帰路も時々転ぶものの比較的元気であるが、帰って朝食を食べたらすぐに居眠りを始める。連日30℃の猛暑が続いたなか、ゴクロウなことにダリは黒い毛皮も纏っている。ワタクシだったら発狂していたであろう。いっそ夏は白か金色に染めてやろうかと毎夏思うのだが、特に今年は本気で考える。

一昨日は東の都から 指揮者のミドさん母娘が来る。せっかく来たのに異常な高温に申し訳なく思うが、灼熱地獄の都に較べれば涼しい・涼しいと喜んでいる。お嬢さんのサミーさんは5月にLAの大学を卒業したばかり。今時の若者には珍しくきちんとした日本語を話すことに感心する。女性好きなダリはいつになくご機嫌。DSCF5877(変換後)
こちらに土地を探していて、一昨日午後・昨日午前とあちこち土地を一緒に見て回る。ワタクシは富士見に住んで36年になるが、久しぶりに走り回って、永住にしろ別荘にしろ、その数の多さに驚く。いつの間にこんな奥までと思うような所に家が建っている。

今日13日は久しぶりに朝から曇っていて時々雨がぱらつく。涼しくてホッとするが、急に体に疲れも感じる。イヤハヤお犬様同様、歳である。明日は村民登山、編笠山にガイドで登らねばならない。降らずに涼しいことを期待する。

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暑っ!

梅雨明けと同時に異常に暑い。とても高原とは思えぬ暑さである。昨夜は窓を少し開けて寝た。7月にこんなことは初めてである。つい10日かそこいら前にはストーブを焚いたのにである。野辺山(日本一標高の高い駅1300mなんぼがある)でさえ30℃を超えたようだ。全く最近の世の中あれこれ「急激」でメイワクである。

こうなると半田付け作業のコテの熱さに嫌になるが、何とか1枚作り終える。

DSCF5874(変換後)

東の都のヤスコさんに先日戴いた素麺のお礼の電話をすると変な声である。「どしたの?」と聞くと「暑くて死んでる!」とのこと。暫く死人と話す。戴いた素麺にケチを付けるわけではないが、素麺たらいうものは『金魚の餌』と公言してきた。ご幼少の頃、金魚に素麺をやるとおちょぼ口でツツ、ツツッと飲み込むのが愉快だった記憶や、やたら細いので食っても食っても満足感がない感じがして、それ以来どうも素麺は苦手で、カミサンやムスメが素麺を食べる横で「そんな金魚の餌がよく食えるもんだ!」とインスタント・ラーメンか何かを食べながら悪態をついてきた。
何故素麺はやたら細いのか。ワタクシ、うどんでも蕎麦でもラーメンでもパスタでも大好物で昼飯は大抵麺類なのだが、その中でもそれぞれ太麺の方が好きである。ひやむぎならそこそこ、まあ最近はメデタイことに素麺も納豆をつけ汁に入れて食べられるようになったのではあるが。

で、ヤスコさんであるが、高校の1年先輩で舞台衣装家である。従って忙しかったり暇だったりとワタクシ同様正しい自由業であるから、暇な時に時々電話で長話をする。同窓会には殆ど行ったことがないのだが、ヤスコさんは豆に同窓会などに行っているらしく、皆の消息をよく知っているので教えてくれる。最後に会ったのは何時であったか、飲もう飲もうと言いながら最近は仕事で都に行っても1泊か2泊もすると酸欠になってしまうのでなかなか会えないでいる。

そういえば昔、ムスメが小さい時にお猿さんの尻尾とお尻と耳を作って送ってくれた。DSCN1176(変換後)ムスメはそれを付けては木に登ってアケビなんぞを採っていた。

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エッ、もう夏!

一昨日だかに梅雨明けの発表があったが、雨もろくろく降らぬうちに終わり、どうも本当に夏になったようだ。昨日は午後から長袖を脱ぎ、アトリエの窓を開け、半袖・半ズボンで過ごした。

初めての東の都の夏を経験するムスコは、バイト先での労働に加えてこの暑さで12Kgも体重が減ったと電話してきた。ガンバレ、都の夏は地獄だぞ!

いつの間にか甲斐駒の谷筋の雪も消え、岩肌も緑になっていた。八ヶ岳の上には夏の雲が掛かっている。DSCF5868(変換後)DSCF5871(変換後)
そう言えば今週末には村民登山のガイドで登らねばならない。今年は村民30数名の人気である。
例年頼まれる学校登山ガイドだが、今年は小学校2校、中学2校のガイドを断り、地元小学校のガイドと村民登山のガイドだけを引き受けた。丁度日程変更が難しい上に検査後数日はおとなしくしてねばならぬ内視鏡検査の日にぶつかったりの諸々の事情もあるのだが、学校の年間スケジュールが春には決まっているのに直前になって依頼してくることが気に掛かる。学校登山を「行事」として毎年行っている学校ではマニュアル化していて、引率教師に危機管理意識が年を追うごとに低下しているように感じる。小学校で50〜60名、中学では120名近くを連れて八ヶ岳に登るにはガイドが付いていたとしても、教師それぞれが「危機管理意識」を持たねば恐ろしい。ある中学で配られた「登山計画書」は前年の丸写しで、恐れ入ったことに年度も日付も前年のまま、生徒の名簿だけを変更したものであった。また、ある小学校登山では急に雷雨に襲われて急いで下山中に生徒同士が喧嘩を始めた。それを見た若い教師が「はい、誰々君の言い分は、はい誰々さんの言い分は」と隊列を止めて言い出した。既に近くに落雷音がしているのにである。教師が忙しすぎること、公立だと教師の移動が多いことからどうしてもマニュアル化してしまうようだが、それ以前に、何と言っても学校や教師の「危機管理意識」の低さが由々しき問題だと思う。

昨年急死されたミツルさんと共に10年近く前に学校登山の立ち上げに関わった地元小学校では必ず下見登山に引率教諭全員とガイドが同行して、歩き方、歩行スピード、休憩の仕方、トイレとする場所の確認、地図上の現在地の確認等を教え、1ヶ月前には親を集め、装備や服装、食料・水分の量、等の説明会を行い、山好きな親をボランティアとして募集、実施1週間前にはボランティアの親とガイド、教師で隊列の編成、点呼の方法、危急時対応の説明等を行うようにしている。この他、障害を持った子供がいる場合は頂上まで行けなくとも、充分安全と判断される所まで教師・ボランティア、時によってはガイドを1名手配し、本隊には最低でも先頭と最後尾にはガイドを置くようにしている。自然相手にどれだけやっても完全なんてことはないが、少なくとも何十名もの子供を引率する上での「意識」を持ってもらうには必要な事だと思っている。

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数学者は変人

ムスメと高校の教師の話をしていて思い出した。ワタクシが高校で習った数学の先生でサイトウ先生という人がいた。この先生は「教師」というより「数学者」であった。黒板に数式を書いて生徒に解かせるのだが、途中で何やら数学的閃きでもあったのだろう、その世界に嵌ってしまうと黒板に向かい我々には分からない数式が延々と並ぶこととなる。これが終業のベルまで続く。全く自分の数学の世界に入ってしまう。この先生、オツムの装飾物は現在のワタクシ同様進化していたので欠如していた。ある時、授業開始のベルと共に入って来たサイトウ先生を見て、クラス中の目が点となり、次に「ぎゃーっ」と笑い出した。何とオツムにまるでビートルズのような『カツラ』を被っていたのである。ところが先生、笑い転げる生徒を気にするでもなく黒板に向かっていつものように淡々と数式を書いていく。ところがこの日も数学的閃きを覚えたのであろう。カツラを振り乱しながら一人黒板と対峙、段々オツムも熱を帯びたのであろうか、突然カツラを脱ぎ捨てると教卓にポンと放り、数式と格闘していた。どっと笑い転げる生徒の声などまるで耳に入らない。で、終了のベルが鳴ると、そそくさとカツラを引っ掴んで教室を出ていった。それ以後「カツラは暑い」と悟られたのであろう、このオツム装飾物を二度と見ることはなかった。こういう旧制高校の名物先生みたいな先生に出会えたことはサイワイであった。まだご存命なのであろうか。

ところでワタクシのオヤジも数学教師であった。故になかなかに変であったが、彼の戦後直ぐの大学時代の数学科の仲間はもっと変な人が多かった。ワタクシが学生の頃、正月によく家に5〜6人の変人が集まっては飲んでいた。ある人は九州の高校だか大学の先生を辞めて、右の方で有名だった○○舘大学の数学の先生になった初日に入学式か何かでの総長講話を聞いて直ぐ「○○舘大学民主化案」という模造紙大の要望書を貼り出して即日クビ、裁判をやっていた。当時は大学闘争の華やかしき頃である。オヤジが「君、○○舘大学という大学を知らなかったの?」と聞いたら「うむ、ちょっと東京で住んでみたくなったから来たけど、世の中には凄ェ大学もあるもんだ。」とのこと。さすがにこれには集まっていた変人達も呆れた。が、もっと呆れたのは酒席の途中で彼の奥様からの電話に、「そうですか、死にましたか。では帰ります。」とか何とか応えながらまた飲んでいる。再び電話。またまた電話。「帰る、帰る」と応えながらもまだ飲んでいる。オフクロが心配して「何かおありですか?」と聞くと、「何ね、猫みたいにそこはかとなく居着いたお袋がいま家で死んだらしいよ。」とのこと。これにも一同びっくりだが、本人は平然として「何ね、俺はお経が読めるから坊主も必要ないし、何、急ぐことはないです。」と相変わらず飲み続けていた。とにかくメチャクチャな連中で、誰も聞いていなくとも一斉に勝手なことを口から泡を吹きながら喋っている。一人だけ数学ではなく化学か何かでノーベル賞候補になった人がワタクシに向かって「ほらね、数学者って嫌だね。変でしょ。ドモリにチンバに変人だらけでしょ。」と言うのだが、そのご本人すら歩く姿は右手と右足が同時にみたいな歩き方で、おまけに左右別々のとんでもなく派手な色をした靴下を履いていた。ワタクシもカミサンも数学は特別出来も出来なくもなく、ムスコとムスメは全く出来ずに変人にはならずに済んでいることは誠にメデタイことである。
(表現に一部、世で言うところの『差別用語』と言われる表現があることを承知しておりますが、肉体的特徴=差別とする意図はありません。ならばチビ・デブ・ハゲ=『オツムの装飾物の欠如した人』なんぞも・・・)

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