山は冬、里は晩秋

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−6℃

ここ数日、大型の寒気が入り北の方では平地でも雪となると騒がれていたが、今朝は寒かった。朝6時には−6℃となった。ダリの飲水はカチカチに凍っていた。遅れていたカエデは赤くならずに落葉してしまった。お犬様と歩く散歩道は落ち葉で埋め尽くされ、上からは落ち葉が音をたてて落ちてくる。DSCF6671(変換後)いよいよ冬である。

ついでといってはいけないが、日本国も冬の時代である。
特定秘密法案や道徳教育の教科化、この国は一体どこに向かうのだろうか。民主主義というのは国民が判断するというのが基本原則のはずだが、その判断に必要な情報を国民に知らせないようにするのが特定秘密法案であり、検定教科書で同じ価値観を植え付けようとするのが道徳教育であると思う。そもそも民主主義というのは多様な価値観の中から自らが『選択』することではなかったのか。その元となる情報を『国家』が隠し、同じ価値観を教え込むというのは『全体主義』と呼ばれるのではなかったか。天皇を元首にして国防軍を作って、一気に戦前の『全体主義』に戻したいのか。どこまでアメリカの『ポチ』に成り下がりたいのか。今もっとも必要なのは、歴史や民主主義を勉強しなかったアホ首相をはじめとする政治屋どもへの『真の意味での道徳教育』なのではないだろうか。

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カツ丼・紅葉・初冠雪

今朝は2ヶ月に一回の内科通院日。採血検査で数値もちょっと下がり、次は3ヶ月後となる。採血のため朝食抜きだったので最上階のレストランへ。食券機の前に忘れもしない『因縁のカツ丼お婆さん』がいる。何をお召し上がりかと彼女の押すボタンを凝視したら案の定『カツ丼』をお買いになった。一瞬考える。検査値も下がったのはこの間の節制?のおかげ、ここはやはり『朝定食』か『玉子丼』か『親子丼』で、いやいや、日和ってはいけないし、ここは『カツ丼』の方がコックさんも作るのが楽だろう・・・で、エイヤッと『カツ丼』のボタンを押し、曲がった腰を伸ばしてお婆さんがカウンター越しに「カツ丼!」と大声で注文したのに続き、ワタクシも大声で、ではなく小声で「同じ物を」とチケットを渡す。

まだジュージューと音を立てている『因縁のカツ丼』は美味かったが、さすがに朝10時のカツ丼はワタクシにはやはり少々重すぎだ。若輩者が日本一の長寿県のお婆さんに対抗するのは止めようと深く反省する。

病院からの帰りは八ヶ岳に向かって登っていくことになる。紅葉のなか、昨日の雨が上では雪だったのだろう、赤岳や横岳の稜線が白く輝いている。IMGP5806(変換後)今年の紅葉は長く美しい。家に帰るまであちらで一服、こちらで一服と紅葉見物である。IMGP5788(変換後)

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続・五十肩

今日は快晴。ムスメが昨日から修学旅行で沖縄に行き、いつもだったら5時には起きるのだが、ついつい二度寝してしまい8時に起きる。よって何時になっても散歩に行けない、ということは、日に一度の餌がなかなか食べられないダリにとっては非常に迷惑な状態となり「ウ〜ッ、ワンワン」と鳴き叫ぶ。やっと散歩となっても快晴とあって飼い主様はカメラなんぞで紅葉を撮ったりしていて、はなはだ迷惑そうである。「お前には鑑賞する心も感傷もないんだろう」とダリに説教するも、奴は一刻も早く餌にありつこうと「うるせえな!メシ、メシ。何が鑑賞じゃ。とっとと歩けよ!」と吠えている。まったくもういい歳をして、自然美も芸術も文学も文化も理解しない奴である。IMGP5774(変換後)IMGP5787(変換後)

散歩後、五十肩の治療に整形外科に行く。「如何ですか?」「ちっとも変化はありません。先週は1週間薪割をやったけれど、良くも悪くもならなかった。」と言ったら、いつもは穏やかな医者の口調が変わり「格好いいカントリー・ライフなんか止めなさい。大体80才になったら薪割なんか出来なくなる。石油が一番。」「いや、別に格好いいとかでなく、我が家には薪ストーブしか無いんで。それに80才になってもそういう生活するつもりですが・・・」「そういうことはお止めなさいという意味でカンレキという言葉はあるんです。ファンヒーターを買いなさい。それで解決するでしょ!石油が一番!」と石油業者の回し者みたいなことを言う。カチンと来る。どうも医療に関しての考え方が根本から違うようだ。こちらは「痛い五十肩をを治してくれ。治して私の思う生活を続けたい。」と医者に罹っているのであって、「何々を止めれば良い」との意見を聞きに行ったのではないのである、と天の邪鬼なワタクシは居直りたくなる。「まあ、カンレキなんだからそろそろ身体の負担も考えて暖房機器も考えた方が良いかもしれませんねぇ。」程度なら分からないでもないのだが・・・

そう言えば遙か昔、大学生の頃にもあった。中学時代に傷めた足首を診てもらおうと行った病院で、「山でアイゼンを履くと足首が痛い」と訴えたら「山に行かなきゃいいじゃないか」と言われ、医者と大喧嘩になったことがあった。それで別の病院に罹ることになったのだが、こちらの病院には山好きな医者がいて「ここの関節が昔の怪我で広がりすぎているので、こちら側の筋肉を強くする為に普段からこう歩くよう心がけて・・・アイゼンは前後別々のベルトで締めるタイプを使って・・・」と一生懸命治療やリハビリにあたってくれた。

患者それぞれにやりたいことがあり、その時に出る身体的支障を治してもらいたいから医者に行くのであって、ワタクシなんぞは「やりたいことを止めれば良い」というのでは本来の医者に行く意味がないと思っているのだが・・・ま、医者が忙しすぎるし、「一生懸命治そうとしているのに薪割なんぞしやがって」と思うのも分からないわけでもないのだが・・・

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アリの社会

焚き火の火というものは凄いものである。薪割の終わった裏庭に散らかっている樹皮やチェーンソーの切り屑などを焚き火用の大穴に一輪車5〜6杯分放り込んで、昨日の朝、火を付けておいたのだが、午後からの結構な雨にもめげずに今朝もまだ煙を出しながらジワジワと燃えている。こういうのを見ると「凄いなぁー」「えらいなぁー」と感動する。別に火に意思があるわけでもないのだが、「雨にも負けず・・・コツコツ・ジワジワとエライなぁ〜」と思うのである。ワタクシには無理だなぁ〜と思ってしまうのである。IMGP5755(変換後)

さて、今朝の新聞に『生物多様性研究所あーすわーむ』の福江祐子氏が『アリの社会 人間の社会』というのを書いていた。要すに「アリやハチの多くは繁殖を行う個体と労働を担う個体の分業制の社会を作っているのだが、シワクシケアリというアリのコロニーには働かない個体が一定の割合で存在し、それを取り除いてもなお、働かない個体が出現する。働くアリばかりだと効率的だが、全員が疲れ果ててしまえばそのコロニーは消滅するしかない。一方働かないアリがいる場合は、非効率的ではあるが、働くアリが疲れて動けなくなった時には、働いていなかったアリが働きはじめる・・・アリはフェロモンで餌までのルートに匂いをつけ、後の個体はそのルートを辿るが、たまにそのルートを外れてしまう個体がいて、それが餌までの近道や新たな餌の発見に結びつくことがあり、このような個体の存在が分業をスムーズにし、コロニーの存続を可能にする・・・人間の社会もまた、さまざまな個性が存在することによって成り立っている。だが、グローバル化が進むなかで社会が画一化し、「役に立たない」と見なされた人を切り捨てるような風潮が強まっているように思える。果たしてそれは、持続的な社会を築いていくことにつながるのだろうか・・・多様な個性を許容する社会であってほしいと思わずにはいられない。」

君もたまには休んでね!

君もたまには休んでね!

全くその通りであると思う。ワタクシが社会の役にも立たないステンド・グラスなんぞを作っているから、おまけに性格がアリではなくキリギリスだから言うのではないが、みんなが同じ方向を向いて、みんなが経済至上主義みたいな顔をしている社会って歪だよな、と思う。

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