阿弥陀岳

今朝はいやに気温が高い。
信濃毎日朝刊によると、学習院5人パーティーは8日に行者小屋から(分三郎からか北陵からかは出ておらず)阿弥陀に登った後、中岳分岐で誤って立場川側に入り込んだが途中で気付き、同夜はビバーク、9日に南陵を登り返したが途中で1年生の女子学生が遅れだしたので主将が付き添い、1〜2年生3名を先行させ、この3名は18時頃に行者小屋に戻ったものの、9日夜9時を過ぎても2名が戻らない為に救助依頼を行ったようである。
昨夜の夕方見た県警のヘリは南陵あたりを盛んに飛んでいたし、夜のニュースでも救助隊員が南陵と思われる場所を捜索しているのを見て、ちょっと不思議に思っていたところであった。

今朝の阿弥陀は薄くガスが掛かっているが、中岳も薄く見えている。

8時半頃

8時半頃

仕事をしながらも時々アトリエから阿弥陀を見る。10時頃にはガスも上がった。何とか早く見つけて欲しいものである。

10時半頃

10時半頃

午後、釜無川の鑑札の交換に原村のイケさん宅へ。イケマナブさんは1999年に槍ヶ岳北鎌尾根で亡くなっているが、奥様のリツコさんが漁協の組合員として鑑札を受け継いでいる。学習院大パーティーを心配していた。
帰りにヨシユキさん宅に久しぶりに寄る。1980年夏、大学のワンゲル1年生がやはり阿弥陀岳に続く尾根で亡くなり、大学本部からの依頼を受けてヨシユキさんと遺体収容に夜中に登ったことなどを思い出す。
14時頃から盛んにヘリの音がしだし、16時頃県警ヘリが帰投するのが見える。ひょっとして見つかったのかと思い帰宅してパソコンを見たら、阿弥陀岳南西面にて遺体発見とのことであった。

16時過ぎ

16時過ぎ

ネット・ニュースでは2ルンゼ?(広河原沢2ルンゼ?)付近でザイルに結ばれたまま1.5mの雪の下に埋まっていたとのことである。

1999年の正月、ワタクシの所属した山岳部でも後輩2名を鹿島槍で失い、更に翌年の夏には穂高でやはり1名が墜死した。皆二十歳くらいだった。
辛いことである。が、それでも山が、特に雪と氷に閉ざされた山が『登る人』を強烈に惹きつけるものがある以上、山に登らない人間が下界のストーブの前で何を言っても決して通じやしないのである。

 

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